(※はじめに。普段書記をなさっている方(本読書会主催者兼本ブログ管理人)が当日あいにく参加出来なかった為、当日メモおよび本エントリは代理の者が作成しております。もし読みにくい・わかりにくいなどありましたら、メールやコメントなどで気軽にご指摘お願い致します(あとから補正することを考えている箇所もあります(△マーク部分など)。
なお以下文、話があちこちに飛んでおりますが、実際にそうであり、ダイナミズムを損ないたくありませんでしたので、基本的に当時そのままの順序にしてあります。ご了承下さい。)
今回8/7のテキストは『春と修羅』でした。
8/7メモ
・賢治がアニメ界に与えている影響も絶大なので、その意味でも読んでおくと色々見えて来る。
(追加:例として近作アニメ『文学少女』などが)
・賢治の総合感覚的表現とアニメ表現の話題から、現代のアニメーターの身体表現の問題で興味深い対談があって、それは、押井守×鈴木敏夫の2004年(組んで『イノセンス』作った頃)の対談、
鈴「最近のアニメは身体が無くなってる」 - ノスタルジー側(宮崎駿側)
押「それは当たり前」 - そういうものとして次の方向へ進む側
(http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_interview_2004so.htm)
しかしその対談後…
押井はイノセンスで燃え尽きた→空手で鍛えた→2008年『スカイ・クロラ』作った(駿的になった?)
またその対談の最後で、宮崎・押井ともに、結局人生誰(他者)と生きていくか?という問題にまとめられる、と指摘した鈴木Pもなんか天才的。
日本アニメは宮崎・押井以後、作品の哲学的?問題の深みに欠けるのでは。
・(参加者木氏の指摘から)大雑把な時代区分として>80年代には言語実験的作品が減っている→90年代はほぼ忘れられている→00年代以降は??(例えば松本圭二が大物?。若い詩人たちが活発化はして来ている?詩を書きつつオーガナイズ的なことも出来るマルチタレントが増えた(過去を引っ張ってくるのではないかたちの)抒情詩が復権しつつある?
・賢治の名のつく賞が意外に思いつかない。→賢治は語りつくせない、どこまでも広がる事が可能、賢治賞なんてのは矮小化になるから作れないのか(?)
・賢治論には厖大な数があるが、例えば入沢康夫は重要、ほか『童貞としての宮沢賢治(押野武志)』『宮沢賢治殺人事件(吉田司)』などオススメ。
・賢治の好む言葉「交響」、賢治はオーケストレーションを目指している、とも言えるのではないか。
・春と修羅では、作風は3タイプ<小品(宝石的)><長編(物語的)><中篇(日本語の交響的実験?)>と大雑把に分けられるか。
・賢治はレコードコレクターでもあった(同時代のドビュッシー聞いたり、レコード鑑賞会開いたり「ハイカラ」な人でもあった)
・ところで「交響:オーケストラ」って不思議。シンセなど今の電子楽器でもオーケストラが結局基準に、近代人の基準・近代人の普遍性?(Y氏、例えばギャングスタ・ラップのDr.ドレーもオーケストラを目指している?)
ニコオケ『流星群』も面白い(http://www.nicovideo.jp/watch/sm4274181)
近代音楽は楽器音中心=「音楽は国境を越える」…言葉じゃないから
・ところでクラシックファンはなぜかほとんど「男」。本では宮台等が『「男らしさ」の快楽』でオーディオマニアにも男が多いことについて論じている。
演奏家では女性も多いのに。例えば一見男らしいチェロでもデュ・プレ(女性:故人)が最高峰にいたりするのに。そもそも「マニア=男」か、という大きな問題にぶつかる。しかし最近のBL腐女子も「マニア」では?面白い問題。
・地獄を描いた詩がある(△?)
・賢治の一般的評価として、「文部省推薦的」なものだけが多く知られている傾向があるのは勿体無い。(例:雨ニモマケズ だがメモ帳に載っていたもので、いいのかw?)
・また賢治の作風はそれ自体が実験的であり、例えば『銀河鉄道の夜』なども絶えず改稿して完成稿がない、動き続けている作品という考え方を持っている(『銀鉄』はブルカニロというのが出ているバージョンが重要)、『グスコーブドリ~』は顕著
・賢治の人気は漱石と双璧だが「日本文学史」では傍流扱い、音楽界で東京芸大出てないと音楽史上の評価が低いみたいな?…(公務員で独学で作曲家になった伊福部昭、甲子園の『栄冠は君に輝く』の古関裕而、演歌で有名になった古賀政男など、皆もともと非常に優秀な芸術系だった)
→評論家にまともなのがいない、学閥で決めていた?…現在ではますます共通体験が無い・減っているから、「評論」がない。
→80年代まで、それまでの一直線の「歴史・進歩」というものが共有出来たが、それ以降は、例えば文学では村上春樹がトップのまま、皆は各自が好きな時代や人のことしかデータベース的にしか知らない・「体系」が無いというポストモダン状態……
→でも、今からでも「歴史・体系」が身に付くのかな?どうなのかな?、しかし「世界基準」は依然「歴史」。
(追加:例えば宮台真二は教育の場では代表作を順に教えれば身に付くと言っている)
・そんな新しい事態に対して、「キャラ」で惹き付けるとか…「キャラ」で充分じゃ駄目なのでは?(アニメ界も紙芝居化してて危機感ある(「オタアニ」批判がある)→音楽で、音程が「平均律に合ってればOK」じゃホントは駄目だよ、という問題と似ている問題?)
・「行間を読む」ということが無くなって来てるのか…(行間読む・文脈読む「えも言われぬ」ところを重要視するのが今でも世界標準なのだが)
→とりあえず“良いもの”を体験させてみないと(上記のように宮台はそうすれば必ず豹変するというが…ここのKさんは確信持てず)
・極端に言えば、一定年齢(1980年以前)以上の人は「ヒエラルキー(順序・歴史・体系)」がある(何でもヒエラルキーに取り込んで説明出来る身体になっている)ので、現代の「フラット状態」というものがよくわからない、だから「フラットな人が「わからない」と言うこと」に困る……
・評論家、特に東浩紀世代にいない(特に女性:『思想地図』はジェンダー気にしない・男だけでOK状態だが…)
・惜しかった議論として?東は毛利嘉孝にキレた=ポイント突かれた(『国際シンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」』にて。http://www.nicovideo.jp/watch/sm9926108、http://www.nicovideo.jp/watch/sm9926521)
・以前に宮台は「90年代以降、自分が実存的に好きなのではなく、“コミュニケーション・ツール”となった」=芸術?が無くなって来たと言っていた(?)
・何にしても「技術(技巧)の修練」というものが無くなって来ていないか?
そうすると「天才・才能」が判断できなくなり、それは一定の確率で生まれるのに、「優等生」主義が広まってそれがベーシックとなると困る。
・ポップ音楽界でシンガー・ソング・ライターばかり増えてしまってる(例えば「いきものがかり」とか音程才能あるけど、それ以上歌う技術を磨かない寂しさ)。シンガー・ソング・ライターはトークもいけるのでマスコミにも乗りやすいが、例えば歌うマシーン的天才?夏川りみは、トークがシンプル過ぎ(ヤンキーっぽい?)(Y氏「ヤンキーの方が職人向きかも」)
セリーヌ・ディオンは歌唱力キープの為に普段手話(Kさん「でもそれって弱いよね、対して「お笑い」の「さんま」とかは普段から飛ばしている)
・技巧の衰退に関しては、選抜システムの問題なのか?今の人気トップグループが出てきた90年代『ASAYAN』決勝で評価1番だった人(藤岡正明)が結局ブレイクしなかった…一般受けする・しないは別問題ではあろうが。。
・才能(天才)というものは確かに在る。賢治は天才としか言いようがないが、詩でも何でも、出来る人は子供の頃からけっこう出来ていることが多い。
・K(?)氏「最近の詩人は正直に自分のナイーブさを出す、生々しい表出が多い(三角みづ紀は異常?・バンド持ち)、でもグッと来る」、対して入沢は嘘をついても虚構の世界を作り上げるが…
・ポップ音楽話題で…口パク禁止してみるとどうなるか(中国で実際)
CD売れず→ダウンロード&夏フェス増加…何でCD買ってたんだろう?生で凄い人は生の方が良い。マスコミの生(ナマ)の軽視と実際のナマの人気(ライブ盛り上がり)
・基本的に「近代」は物理学中心、それ以前は数学。しかし例えば中沢新一は数学を重視(で、近代じゃない?実際オウム支持もしたし恐い・大丈夫か?頭の良い人だが)
・賢治は時代の割に国家主義の文献が残っていない(隠されたか、天性の勘か?K氏「活動したがりだがボンボンだし、現実になり切れないのでは」)
親と縁切りしたがったが法華経で出来ないという葛藤があった
西洋かぶれの影響でリベラルだったのかもしれない?(キリスト教は割と中立的だった)
・モダニズムと交響(オーケストラ)との必然性があまり論じられてない
ハリウッド映画の拡がりの凄みのもとにも多分オーケストラ音楽。何でこんなに凄いのかオーケストラ??
・あともう雑談
※橋本治の「“美しい”がわかるには原体験が必要」みたいな話からそれぞれの体験を語り出す…
K氏、『フランダース』のラストに泣いた、大学時代色々読んだもの
木さん&K氏、清岡卓行の「大連モノ」は美しい…今褒めると批判受けそうだが
木さん、吉岡実は人気あった、木さん&K氏:個人的にも賢治に大影響受ける。
大正から昭和初期の詩は実験性と大衆性が合わさった黄金期と言える
70年代の経験として、マンガでは「24年組」とくに大島弓子を知ってガチガチのハイアート志向から変わった「現代ではこっちの方がアートのクオリティ」
K氏「MP3で満足できる音楽は、共通体験を感ぜられれば良い音楽なのだ(△さわいたいじ?の論より。検索ヒットせず)」、MP3でいいや=コンビニエントで良いや=私は凡人か(笑)
オーディオマニアもLPレコード時代のが凄かった
レコードの音はスピーカーの奥で演奏してるような生々しさがあるが…良い音とは何かを誰が決めるのか?客観的にはデータが重いほど良いとなるが、美はそれだけではないし…
アニメで押井守(シラケ世代まで)は命賭け?て作ってるが、細田守世代は賭けてない感じ、もう黄金時代は去ったのか?
お話の主人公が何らかの意味で天才(=予想不能)なのが西洋流(根拠が“天性”)だが、日本や韓国は“不幸”病気や事故などが根拠(?)
・現在は才能を自覚する機会がないのか?「三度のメシより好き(≒天才)」のチャンスが失われている(メシでも何でも世の中与えてくれるから)
・ただなぜか若い人もマイノリティ問題には「食いつく」、倫理への興味?(倫理は近代の根幹だが:カント以降)しかし、むしろ若い人は自分のアイデンティティに興味?自分の深刻さ?が欲しいのか。「重い」哲学が欲しいのか。
→「現代思想」の軽薄化オタク化=一般との分離感の元凶のひとつは浅田彰?
『構造と力』には言語論的転回における「鶏が先か卵が先か」的?の深刻さが無い。
現在すべてが軽いということでは、昔のテレビドキュメントは死体など生々しかったが、今は耐性無い人多い。
ところでそもそも凄いドキュメントとは何か。
石牟礼道子『苦海浄土』はドキュメントなのか作品なのか…日本近代における哲学的テキストの最高作のひとつ。
詩は韻が大事。「現代詩」ということでは、戦後、詩の側が差を明確にしたがった(「散文詩」というのもあるが名作あるか?失敗ジャンルかも?)
現在ポエトリー・リーディングの人口多いが下手、Y氏「ラッパーがやった方が全然上手い(笑)」
Y氏オススメのCD、『風は海の深い溜息から洩れる(キム・シジョン)』『わが青春のまるめろ(高木恭造、津軽弁)』
【たまたま持ってきていた関連?書籍 以後候補考えるのに】
『限界芸術論(鶴見俊輔)』
『青い花(ノヴァーリス)』
『自由を考える―9・11以降の現代思想(東浩紀&大澤真幸)』
『触発する言葉―言語・権力・行為体(ジュディス・バトラー)』
時事ネタ:ポルノ法改正との関係…最近の児童ポルノの話からポルノ論として
次回(9/11)のテキストは、「賢治の童話から各自一作選ぶ」こととなりました(ちなみに、ちくま文庫の『宮沢賢治全集』5~8が童話集となっており、入手しやすいです)。
対話がしやすいように、有名作品『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』『どんぐりと山猫』etc…以外でしっかり読んでおきたい短い作品を7つ挙げておきます(青空文庫にもあります)↓
『虔十公園林』
『やまなし』
『雪渡り』
『よだかの星』
『フランドン農学校の豚』
『猫の事務所』
『洞熊学校を卒業した三人』
(賢治の童話は豊かな人生の為にぜひ読んでおくべきでしょう)